★ こいくち作品解説 ★

~ 『 まりこシスターズ 』 とは何なのか? & インディーゲームについて思うこと ~


この解説では、執筆者の日本語への愛情に基づき、同一語でもヒラガナ ・ かたかな ・ 漢字が混在しているなど、
表記が統一されていない場合がありますが、それは執筆者の意図によるものです。 予めご諒解ください。

なんとなく思いつきで、生まれて初めて作者自らによる 『作品解説』 (+開発秘話も少し) というものを書いてみました。

ゲームの解説といっても、校長先生のお話よりボリュームがあるので、本当の興味のある人か速読の達人の方だけ読んでください。
あるいは、モバイルなんかにコピペ保存してちょっとずつ読んでいただくのもいいと思います。

というか、ブラウザゲーム程度でまじめに作品解説とかするようなものなのかわかりませんが... (笑)
まあ、音楽CDで言う、 「セルフライナーノーツ」 みたいなもんです。(意味合ってるかな?)


本作品は普通に遊んだだけではコンセプトを全く理解していただけないケースが多いです。
そういう人はおそらくこんなページは読んでくれないとは思いますが、
それにしても書かないと絶対に読まれることはないので、書いてみました。



これを読めば、「まりこシスターズ」 が100倍面白くなる!
”クソゲー” だと思った人も、「マシなゲーム」 くらいにはなる!!

・・・という内容にできたらいいなぁ、なんて思ってますが、
たぶんそれは無理なので、まあ暇なら読んどいて損はない程度のものを目指そうと思います。

このページを開いてしまったのも、何かのご縁。
というわけで、しばらくの間おつきあいください。
(ほんとに長いですよ。。。)




さて、小説にしろ絵画にしろ映画にしろ音楽にしろ、
その作者の意図が作品を通じて 100% そのまま伝わることはあり得ません。

それは、コンピューターゲームでも同じことです。



なのに、ゲームについて解説されるものといえば、いつも攻略法が中心で、
ガイドブック (一般に攻略本と呼ばれるアレですね) を見ても、
せいぜい開発資料や開発スタッフへのインタビューが載ってるくらいで、
「そのゲームが何を意図し、何を伝えようとしているのか?」 といったことを、
じっくり掘り下げて解説することは、ほとんど無いと言っていいです。

というか、そういうことは一字も書いてないのが普通で、
仮に書いてあったとしても、それほど興味を持たれないのだと思います。


そして、本作 「まりこシスターズ」 については、長~いゲーム史上の中でも、
作品の意図を理解するのが最も難しい部類に入るんじゃないかと。
ゲーム自体の難易度も結構高めですが、ある意味ではそれよりも難しい話です。
それならば、それをしっかり説明するのも、作者の責任かもしれません。

前置きだけで長くなってしまいましたが、以降さらっと読んでいただけると幸いです。
(どう考えてもさらっと読めるような量じゃないけど... (笑))





ゲ~ムとは何か?


今 (2015年 = まりこ完成時点) からちょうど30年前に、世界に革命を起こすゲームが発売されました。

その画面スクロール方式のアクションゲームは、わかりやすい操作と万人向けのゲームバランス、
親しみやすい世界観とシナリオ、クリアするまで飽きさせないやりこみ要素と中毒性、
明るくて楽しい秀逸な音楽、そして赤い帽子とヒゲの親しみやすいヒーロー ・・・。
それら全てが要因となり、世界的な大ヒットを記録することとなりました。
今でも、「そのゲームを超えるゲームは存在しない」 と言われることもあるほどです。

もちろん、家庭用ゲームが本格的に普及する前の話ですし、
横スクロールアクションゲーム自体の目新しさが手伝ったこともあったとは思いますが、
それを加味しても 「伝説のゲーム」 と呼ぶのに相応しいゲームではないでしょうか。

ヒットしなかったものがヒットしなかった理由はわからない。
でも、ヒットしたものがヒットした理由はわかる。

世の中に受け入れられるための要素が全て揃っていた、ということだから。
そういうものは、真似したり参考にしたりするお手本になります。


実際、その後に他のメーカー、いわゆるサードパーティ勢も次々参入し、負けじと新しいゲームを開発。
全社がライバル同士であり、切磋琢磨しながら、名作と呼ばれるシリーズがいくつも誕生しました。
(もちろん、その影で  ”クソゲー” と呼ばれることすらなく散っていったゲームも数多くあることを忘れてはいけませんが。。。)

彼らが目指したものは、切り詰めて言えば 「とにかく面白いゲームを作る」 ことでした。



そして、今は高性能な携帯ゲーム機に加え、スマフォの普及とソーシャルゲーム (ソシャゲと呼ばれるアレ) の登場により、
大人も子供も毎日忙しいビジネスマンも、いつでもどこでもゲームを遊ぶようになりました。
「クリスマスに欲しいものランキング」 と言えば、決まってゲームソフトが1位だったりします。
プロゲーマーという職業まで誕生してしまったわけですから、もはや ”たかがゲーム” なんていうのは半分死語です。
女性にとっても、あの頃に比べればゲームがだいぶ身近なものになったようです。


では、そのことが (ゲーム業界以外から) 肯定的な目線で捉えられているかというと、明らかに疑問符が付きます。
むしろ、報道番組や新聞の投書欄などでは、それは大抵ネガティブな事象として伝えられます。
(そのメディアにゲーム制作会社がスポンサーとして入っているなら話は別ですが...)

クリアしても社会に何も貢献しないゲームに時間やお金をたくさん消費しているわけですから、当然といえば当然のことです。
「子供がゲームに夢中で勉強しないし、他のことにも関心を示さない」 という話もよく聞きますね。



ただ、ちょっと違和感を覚えるのが、ゲームと他の娯楽のイメージの差です。

小説を読んでいてもお母さんに怒られないのに、ゲームで遊んでいると怒られます。
美術館へアート鑑賞に行くのは文化的な活動でも、ゲームセンターに行くのは 「浪費」 と受け取られます。
(企画展のチケットは大体 1000円 ~ 2000円ぐらいが相場ですから、同じお金でアーケードゲームを十数回プレイできそうですね。)

いずれも、根底にあるのは 「ゲームは暇つぶしに遊ぶもの」 であるという大前提です。
少なくとも、あの伝説のゲームの登場から30年間は、大体そうでした。
「脳トレ」 など、ゲームと教育コンテンツとの境界にあるような作品も多く生まれましたが、全体の流れとしては変わらなかったと思います。

だって、ゲーム以外のソフトがあっても、総合すると 「ゲームソフト」 「ゲーム売場」 とか言うじゃないですか?

それに、日本では 『eスポーツ』 は、注目されつつもあんまり普及してません。
その理由として、「ゲームは遊び」 だと思われてるから、という側面が大きいそうです。
(作者もこれについては正直、他の国のように 「ゲーマーはアスリート」 と考えるのはちょっとキツい気もします・・・。)


子供達が夢中になり、(親という意味での) 大人たちからは嫌われる。
それが現状での 「コンピューターゲーム」 なのです!!!



そこでようやく本題 (ここまで長っ!) なのですが、「まりこシスターズ」 は、
その ”ゲームは面白さを追求するもの” という常識を、敢えてほとんど無視して制作されました。
こういうゲームを、作者は ”コンセプチュアルゲーム” と勝手に呼んでいます。
(  ”コンセプチュアルアート” という言葉があるので、そういう言葉もあるのかもしれませんが、少なくとも聞いたことないです。)


「そんなものどーでもいい。 ゲームなんて、遊んでいて面白いかどうかだけが大事。」

そう考える人がいることは百も承知。


ただ、ゲームというコンテンツが飽和状態に近づいてきている (ような気がする) 今、
これまでと同じ考えでゲームを作ることはしたくなかった、というのがありまして...。

だって、あれから30年間も、みんな同じものを追求してきたんですよ。
もちろん、テーマ性やアート性を重視した作品もありましたが、明らかにマイノリティです。
「おもしろいゲームを作れ!」 という開発者の意志とユーザーの要望に飲み込まれちゃってるんです。


そもそも、「遊んで面白いゲームを作る」 というのは、
インタラクティブな電算機 (コンピュータプログラム) に娯楽性を求めるという、
本来は非生産的な行為であるとも言えます。

そして、何も考えずただ単にゲームを遊ぶ時間も、それだけではナンセンスです。

なぜ時間を忘れて遊んでしまうほど魅力的なのか、それを分析する価値は十分にあると思いますが、
それ以前に、ゲームを遊ぶのは爽快感や達成感という一時的な快楽を味わうことだけが目的なのか??

せめてインディーゲームくらいは、もっとハメを外してもいいんじゃないでしょうか?
そろそろ、あの伝説のゲーム以来の衝撃が、もう一度訪れてほしいものです。




”おもしろい” の意味。


少し (かなり?) 話が逸れますが、日本語の ”おもしろい” というこの言葉は、どうも気になります。
英語にするなら、 "exciting" とも "interesting" とも訳せると思います。

でも、この2つはまーーーーーーーったく別物です。
それなのに同じコトバを使うんです。 とっても抽象的なのです!


これは十年以上前に実際にあったことですが、
作者は interesting なものを発表するつもりで、自分のサイトである作品を公開しました。
ひとことで言えば、「わかる人には理解でき、意味がわかってくると興味深い」、そんな作品です。

すると、それを見たある方が 「おもしろい作品」 として紹介してくれました。
(実際には違う言葉でしたが、ニュアンス的には同じで。)


それにより多くの人がその作品を見に来たのですが、
誰一人として、それが "interesting" だとは言いませんでした。
そうではなく 「面白い = exciting = 楽しい」 という捉え方をする人ばかりなのです。

逆に、その作品の価値を否定する人は、ほぼいませんでした。
(たぶんそういう人は感想を言う気もないんでしょうが。)

つまり、みんな作品の意図を全く理解しておらず、
決して 「面白い」 = "exciting" ではないものを ”楽しい” ものとして解釈していたのです。
しかもそれでいて、誰もが 「自分は作品の価値を正しく理解している」 と本気で思っていたようです。

作者が面白く作ってないのだから、面白いわけがないのですが。。。

さらに、作品を評価する言葉を並べながら、「この作品のどこが気に入ったのか?」 には全く言及しない人も多かったです。
例えるなら、絵画の額縁の新製品を紹介するために適当に描いた絵を、「この絵いいね!」 と賞賛するようなものです。



中には 「素晴らしい。 こんなに楽しいものは他に知らない。 似たようなのをまた作ってほしい!」 と言う人までいました。
正直、自分が管理する掲示板でそういう声を聞くことは苦痛でしかありませんでした。
だからといって、いちいち作品の意図を説明する気にもなれず・・・。

結局、その作品の 「おもしろい」 部分に触れる人は、一人もいなかったのです。

言葉遊びのようですが、「おもしろい」 というのは、実に面白くない言葉です。(苦笑)


開設当初から、サイト上ではいくつかの作品を公開していましたが、
訪問者の興味が問題の作品にしかなかったことは明らかでした。

しまいには、ハンドルネームではなく作品名に ”さん” を付けて呼ばれてしまう始末。
つまり、作者は 「サイトの管理人」 ではなく、「その作品だけを作った人間」 だと思われていたのです。
誰も推薦していない他の作品など、存在を知る価値すらない、ということでしょうか。
作者自身がオススメしていないような作品ひとつだけのために、サイトと掲示板を開設するわけないんですが・・・。

本当に悲惨としか言いようがない状況でした。


他にも、必死に作り込んだ作品 (ゲーム) が、遊んでくれた人はいたのに、
作者が一番こだわった部分には誰も触れてくれない、なんていうケースが過去に複数ありました。
たいしてこだわってない部分には触れてくれたりするんですけどね・・・。





価値を決めることの価値


どういうわけか日本人は、周囲に流されやす過ぎて、自分で考えようとしない。
だから、誰かが ○○ だと言っていたら、自分も ○○ だと思うように色眼鏡をかけてしまう。

また、誰も賞賛していないものには、その時点で興味がない。
それがどういうものなのか、見たこともないのに??


SNS が発達してきた昨今では、「いいね」 や 「フォロワー数」 などで、様々な人やモノ、
コンテンツの人気が直接的に数値化されるようになりました。(もちろん不正な水増し行為も散見されますが...)
そうなると、例えば SNS のアカウントのフォロワー数だけを見て対象の価値を判断してしまう人が出てくる。

(個人的には、「フォロー数・フォロワー数」 を非表示にする手段があっていいと思うのですが...。
いや、フォロー制度自体いらないのかもしれません。
フォローしてなくても毎日のようにチェックしてるアカウントとか普通にありますし。)


一般の人には理解しづらい作品の多い 「小説」 や 「絵画」 と違って、ゲームや音楽については、
わりと大衆にウケるものが評価されているような気はしますが、
それにしても周囲の評価に流されてしまう人があまりにも多いのは紛れもない事実です。
フィルターがかかった状態で作品に触れると、ものすごく脳内補正されてしまうのですよ。


さらに、オトナの事情で 「これはいいものだから、絶対チェックしないと損ですよ!」 と煽ったりもします。
で、そういうものの中には、潜在的な価値はそれほどでもないものだって、思いのほか多かったりするわけです。
そうそう、これを ”ゴリ押し (推し?)” や ”ステマ” と呼ぶんでしたね。
それがどれだけ嫌われているかは、もう説明するまでもないはず。


メディアも ”保守的” (あ、政治思想という意味ではなく) なものが多い印象を受けます。
人気が出てきたから、ネタにする。 他のメディアが取り上げていたから、ウチも取り上げる。

そうやって、同じような 「結果的に流行ったもののコレクション」 がいくつもできあがってしまうんです。
まあ、メディアとしてはネタの空振りは避けたいですから、賢明といえば賢明なんですけど・・・。

でも、本来メディアにはモノの価値を決める権利などないのです。
評論家じゃないんですから、起こったことや発表されたものを、忠実に伝えていけばいいのに。
価値というのは、それに触れた一人ひとりが決めるものです。
そして、価値が生まれる可能性のあるものは、しっかり広めていく義務があります。

メディアは主役ではなく、脇役です。
主役と脇役が逆転してしまっているんです。
(ちなみにこの言葉はまた後で出てきます。)

「火に油を注ぐ」 という言葉がありますが、
それで言えば、メディアは本来、(良い意味での) 炎上の 「火種」 になるべきなのに、
もともと燃えているものをさらに燃やす、「油」 になってしまっています。
まるで、「後出しジャンケン」 をしているみたいです。
影響力の大きいメディアほど、その傾向が顕著になるようです。


デビューしてからずいぶん経ってから売れ始めたアーティストとか、
発表してからしばらくは無視されて、突然評価される作品がたまにあるのも、こういったことが原因なんです。
究極的には、ゴッホやシューベルトが生涯無名だった理由も、似たようなことかもしれません。

結論が先にあって、後でその理由を考えてしまう。
だから、本当に評価されるべきものが、評価されなくなっている。


「いいもの」 より 『都合のいいもの』
「良いもの」 より 『良いと言われているもの』
「誰も知らない一流」 より 『話題になっている三流』
「ちょっと面白い時事ネタ」 より 『たくさんつぶやかれたガセネタ』

...がもてはやされるなんて、おかしいと思いませんか?


自分がいいと思うものより、周囲がいいと思うもののほうが大事ですか?
強引に知名度を上げることで、無価値な価値を生み出して、何かいいことでも??


「それが何であるか」 ではなく 「人気があるかどうか」 だけが注目されてしまっています。

裏を返せば、知られてないものは、存在していないのと同じなのです。
極端に言えば、「誰も知らないから0点」 と 「みんな知ってるから100点」 のどちらかしかない。
もし100点が合格点なら、99点だろうが採点ミスだろうが、結果が100点でないものは0点と同じ、ということです。

まさに "all or nothing" な世界。

どんな理由であれ成功したものは多くの人が誉めたたえ、その価値が共有されますが、
どんなに不遇でも失敗したものは無視や嘲笑の対象にしかならない。

なんというか、根本的な部分がおかしいんです。


別の例で言えば、ノーベル賞をとった人は皆知ってるのに、「ノーベル賞候補」 の人については、
一部の有名な方を除いて、顔も名前もほとんどの人が知らない。
その人達がやったことは変わらないのに、世の中の興味があるかどうかで反応が極端に変わるんです。

あと、ノーベル賞をとった人でも、例えば何の研究で賞を取ったかまではよく知らない、という人も多いのではないでしょうか。
小保方さんが受賞者並に有名なのも、メディアが垂れ流す興味に世間が流され、物事の本質を見失ってしまった良い例です。
そして、その小保方さんが本を書けば売れる。 だって、小保方さんは人気者なんですから。



作品というのは、作り上げた時点で 「完成」 するわけではありません。
その作品の表現、意図、価値などが世の中に認知されることで、はじめて 「完成」 します。
そういう意味では、何一つ完成させることができないクリエイターも、案外多いのかもしれません。
作ったものが全く知られていなければ、それは何も作ってないのと同然です。


コンテンツの価値だけでなく、学校の教育とかだって同じだと思います。
結論を押しつけたり、それを言われた通りに受け取ったりするのではなく、とにかく自分で考える。
ただそれだけのことなのに、なぜそれが常識にならないのか不思議でなりません。

それに加えて、「オトナ」 というのは、自分の思想は常に正しいと思い込んでいます。
自分の主観を ”客観的” だと言う人までいたりして、困ったもんです。
「絶対そうだと思っていたことが、実は違うかもしれない」 と疑ってみることは、とても大事なことだと思います。

作者は、日本は素晴らしい国だと思っていますが、こういうところは変えたほうがいいです。
まあ、諸外国がどうなのかは知りませんけど・・・。



...とか言いつつ、そういう自分だって妖怪が活躍するあのゲームを人気が出てきたので気になって買いましたし、
通販サイトのレビューの ★ の数だってものすごく気になります。(買うかどうかは別にして)
書店に行けば、帯には 「○○万部突破!」 という文字が躍っていて、人々 (自分を含む) はそれに踊らされてしまう。
天下の Google 大先生だって、ページの格付けの最も大きな要素は 「そのサイトの人気」 なんですよね。 う~ん。。。



それと、人気や評価が高いことは知られていても、なぜそうなのかは知られていないことも多いです。
映画やヒット曲の歌詞などについても、調べてみると全然気づかなかったようなことが指摘されていることもよくあります。
ぜひ一度、自分の好きな作品をキーワードにして、「○○ 考察」 などで検索してみてほしいです。
例の赤い帽子の人のゲームについても 「他のゲームと何が違ったのか」 が解説されてるので、ゲームファンでなくとも必読です!

なお、作品の意図が理解されなかったという作者の過去の作品については、ここでは詳細は伏せておきます。
いるかわかりませんが、どうしても見てみたい方は作者までご連絡ください。(以上、余談の余談でした。)



あともうひとつ言うと、世間一般に知られているものなんて、ほんの一部に過ぎないですよ。
人気のミュージシャンも、ベストセラーの小説も、所属事務所の稼ぎ頭になれるアイドルも、お茶の間で親しまれるお笑いコンビも、
作品を発表するたび話題になる前衛芸術家も、無事大人になれるウミガメも、星の数ほどある中で結果的に成功した一握りだけ。
売れているものだって、すぐに売れたわけではなく、意外と下積み時代がとっても長かったり。。。
それなのになぜか人々は 「自分は全てを知っている」 ような気になってしまいがちです。

そして、その一部のものを基準にして、あらゆるものの人気・不人気を判断してしまったりする。
そうすると、「普通」 のものは 「平均よりもずっとレベルの低いもの」 と見なされてしまう。

子供の頃は (注: 作者は一応大人です!)、テレビで聞いたことのない芸能人オーラゼロの芸能人が出演してたりすると、
「こんな無名な人を連れてくるなんて、この放送局はお金ないのかなぁ。」
なんて笑ってたこともありますが、今思えばTV出演してる時点で、彼らもそれなりに成功した人達だったんですよね。
(しかもそういう人に限って、のちのち結構有名になってたりする!!)



これはいろんなことについて言えるんですけど、失敗したものだけ目を逸らすことで、
現状を良く見せかけることで問題を 「解決」 しようとする普遍的な心理があるようです。

成功したから知られているだけで、失敗したものは知られることもない。
否、知られていれば成功、と言ったほうが正しいのかもしれない。

少なくとも、価値と知名度が比例するわけではないことは断言できます。
いや、敢えて言えば、直接的には無関係だと思ってよいでしょう。

ひょっとすると、人気が無いものが人気が無い最大の理由は 「人気が無いこと。」 なのかもしれませんよ。
何度も言いますが、人気 (ひとけ) のないところに、人は行きたがらないのです。
その先に何があるのかよく知らなくても、長い行列ほど並びたくなってしまうものなんです。

また昔の話になりますが、ある作品(力作!)を公開していて、
「この作品をどう広めていったらいいか?」 ということを数少ないサイト訪問者に超真剣に相談したら、
「継続的に改良していけばいい」 という回答でした。

内容を改良しても知名度には関係ないんですけどね・・・。
そもそも、すでに完成しているものを、どう改良していいのかもわかりません。
「何を変えたらもっと良い作品になるか」 の答えにもなってないです。
何か致命的な欠点があってそれを改良するのならともかく、
現時点で 100 の価値があるものを必死になって 105 にするのが実質的に無意味なのは明らかです。

要するに、「もっと楽しみたいからもっと作りこんで!」 ってことなんでしょうけど、
それって、それなりに支持者の数がいないと嬉しくない言葉なんですよ。
そんなことするくらいなら、イチから新作を作った方がいいです。

ほとんどのクリエイターには、少人数のために必死に何かを作り続ける余裕などありません。
「人数は少なくても、ひとりひとりに届けたい。」 というのは、
スミマセン、”負け組” の思想だと思われてしまうのではないでしょうか。

「狭く深く知ってもらう」 より 「浅く広く知ってもらう」 ことのほうが、遙かに価値があるのです。
世の中で価値を認められているものは、後者のほうが圧倒的に多いでしょう。
「評価されている(と言われている)もの」 は必ず 「有名」 である。 それだけは、絶対的な共通点です。


世界の長い歴史の中では、本当にたくさんのものが生まれてきたのです。

誰も見ることのなかったダヴィンチ級の絵画。
誰にも聞かれなかったモーツァルト級の珠玉の音楽。
誰にも読まれることのなかった誰もが夢中になれる小説。

想像でしかないですが、そういうものって、たくさんあるんじゃないでしょうか?
特に昔は今と違って作品を残す手段 (メディア) が乏しかったですからね。


それらは全て、分母がゼロだったから分子もゼロだっただけ。
ただこれだと数字としておかしいので、作者もカウントすることにします。

野球のバッターに例えてみます。

作品を知っている人数が打席数で、評価した人数が安打数とすると、一打数一安打、打率10割のバッターです。
しかし、記録上はヒット一本打っただけ。 そんな選手、誰も注目しないですよね。
打率 0.01 だけど100万打席立って1万本ヒットを打った選手がヒーローなのです。
どんなに打率が低くても、ヒットの絶対数が多ければ、認めざるを得ないわけで。


評価が高いこと <<<< (越えられない壁) <<<< 有名であること

このことに気づくのに、結構時間がかかってしまったような気がするんですよね。


「自分だって本気出せば ○○ みたいに成功できる!」

「 ○○ が流行ったから、それと同じレベルのものを作ればバズるだろう。」


というのは、申し訳ないですがほとんどの場合、いろんな意味でとんでもない思い込みです。
少なくとも、クリエイターの世界において、「頑張ればその分だけ評価される」 などということはあり得ません。
「努力賞」 なんて言葉は存在しないです。 だって、作者の努力はユーザーにはどうだっていい話だから (笑)

それに加え、繰り返しますが 「内容のいいものほどその価値を認められる」 というのは幻想に過ぎません。
その上、「評価され」 ても、「評価されたことが世の中に公表される」 とは限りません。


でも実際のところ、このように考える人があまりにも多い気がしてならないのです。
本当に大事なものが何なのか、わからないし、わかろうともしないんです。

自分の作ったものより明らかにクオリティの低いものが、自分のよりも世の中に知られていて、
不満が爆発しているクリエイターだって、いくらでもいそうな気がします。

「失敗は宝」 なんていう言葉もあります。
でも、本当は 「失敗した経験を踏まえて成功することが宝」 なんです。
ただ失敗しただけなら 「ゴミ」 です。
正しくは、本人が宝だと思っても、世の中はゴミとしか思わないのです。

よく、何か大きなことを達成した人に ”成功の秘訣” を尋ねたりすることがありますが、
それは成功したという結果が前提にあるわけで、同じようにすれば成功するわけではない。
でも、そういう話を聞くと、みんな飛びつきたくなる (笑)
重要なのは、それを実践したことで成功した人と失敗した人の比率がどう変わるか、なのですが、
それを知るためにはたくさんのサンプルが必要になるわけで、そんなものあるわけないんですよね。

やはり教育の問題なのでしょうか。 これも何とかしたほうがいいと思いますね・・・。
(このあたりの話は、余裕があればひとつの文章にまとめて発表したいと思ってます。  ← 誰が読むのそれ?)



とにかく、

「これって全然知られてないけど、ちょっと面白くない?」

って思うものがあったら、ぜひ誰かに教えてあげたり、作者さんに感想を伝えてください。


「おもしろい!」  「すごいっ!」  「感動しました!」

誰もが、その言葉を待っているのです。 きっと喜ばれますよ。



逆に、すでに人気のある作家さんは、あんまり喜んでくれないことも多いです。
それどころか、無視されるかもしれません。

残念ながら、「人の言葉で反応をもらえる」 ことの有り難さは、
これでもかというぐらい無名時代を経験した人にしかわからないのです。

満たされいる人は、足りない人の気持ちが理解できない。
お金でも人間関係でも、たぶんそうです。

大多数の人が持っていないものを持っていることが、最大の幸せ。
そして、それは誰かに分けてあげられるようなものではないんですよね。

それが世の常なのかもしれません。





主役は 「まりこ」 ではない



-  秘密の開発資料  -


・・・それで話を戻しますが (だから逸れすぎだってば!)、
「まりこシスターズ」 が目指したのは、「ただ遊ぶことだけが目的ではないゲーム」 です。
それを実現するため、普通のゲームではまずやらないことをやってます。

ある程度遊んでみた方なら、もうおわかりですよね。



本作では、ゲームの 「プログラム」 を冒険の舞台にしています。
普段は 「裏方」 でしかなく、基本的に人の目に触れることのないものを、もうひとつの主役にしているのです。

ここを読まれている方はたぶん知ってると思いますが、一応説明しておくと、
「プログラム」 っていうのは、言ってみればソフトの設計図のことですね。
これをコンピュータが解釈することでゲームが動いています。
ですから、「ゲームを作る」 というのは 「プログラムを書く・修正する」 という作業が占める部分が非常に大きくなります。


もうちょっと深く知りたい方は、「コンパイラ型言語」 と 「インタプリタ型言語」 についても調べてみてください。
( 「まりこ」 はインタプリタ型で動作しており、そのことが ”超” 重要です。)


それで、プログラムの文面といえば、プログラマー達はあまり人には見せたがらないものです。
というか、必死に隠したがるのが普通です。(そのためのツールだってあるくらいです。)

市販のソフトの仕様は企業秘密ですし、場合によっては重要な機密でもあります。
もちろんゲームについても、設計図 = プログラムが流出すれば解析も改造もやりたい放題です。
別にソフトウェアに限ったことじゃないですけどね。


プロのプログラマーじゃない人 (アマグラマー?) だって、
自分のコーディングの癖や手抜きがたっぷり詰まったものを、見せたいわけないです。
(あ、コーディングっていうのは、プログラムを書くことです。)

作者だって、必要が無ければ誰にも見せずに墓場まで持っていきたいぐらいです。


プログラムは、テレビのスタジオで言えば、「舞台裏」 みたいなものですからね。
番組収録の観覧に行かれたことのある方ならわかるかもしれませんが、
全国放送の番組のスタジオでも、カメラに映らないセットの裏側は結構ショボかったりするんですよ。(笑)


ゲームにしろテレビ番組にしろ、ユーザーが触れているものの実体は、
連続的に出力される 「ピクセル」 の集合体と、スピーカーに伝えられる 「音声信号」 という無機的な情報に過ぎません。
(VR系のゲームとかだと、映像や音声以外の要素もありますけどね。)

もちろん、その間には様々な計算処理やカメラからの入力を経ているわけですが、その部分は見えません。



そして、ソフトウェアを使用する側の人としてみれば、
基本的にその設計図を知ってもしょうがないですし、それほど興味もないはずです。
それを使うために必要なことが一通り書かれた 「取扱説明書」 があれば、それで十分なんです。


いや、ゲームに至っては、それすら必要ないのかもしれません。
昔のことですが、買ってきた新発売のゲームを説明書を読んでから遊ぼうとしてたら笑われたことがありますから。

そういえば、最近は電子ガイドが普及してきたので、別の意味でも 「説明書」 が無くなってきてますね。
あの紙の匂いとか、ペラペラめくってゲーム内容を想像する感じが好きだったんですけど。



楽しければ、なんでもいいんです。

作者のようにめちゃくちゃなコーディングでも、ゲームを遊ぶのに影響ありません。
つまり、プログラムは 「見せたくないし見る必要もない、どうでもいいもの」 なんです。



でも、「まりこ」 は違います!!

今まさに動いているプログラムが、そのままゲームの世界になっているのです。
ユーザー (プレイヤー) には、始めからその全貌が見えています。

たくさんの命令文が、設計図であり、地形でもある。
プログラムが2つの意味で 「世界のルール」 になっているわけですね。

本来、見えてしまってはいけない、「それ自体」 が視覚化された、
再帰的というか自己言及的というか、なにか矛盾したような世界・・・。

これは、本作のコンセプトと密接に関係しています。



赤い帽子のヒーローが登場した時よりもさらに昔、
ピンポンゲームのような原始的なゲームが誕生した時からずっと、
ゲームのキャラクター達といつも一緒に、プログラムがあったんです。

それなのに、誰もその中を冒険したことはなかったし、しようとも思わなかった。

それをひっくり返すことで、何か見えてくるか?
その先にあるのは、とってもシンプルなことでした。



脇役だって、たまには主役になったっていい。

大事なものは、表に出ない。



ありきたりですが、そこに気づいてほしい、というのが本作の意図のひとつ。
(後者についてはそういう有名な詩がありますが、これについては決してパクったわけではありません!(笑))



ひとつと言ったのは、実は大事なことがもうひとつあるからです。



コンセプチュアルゲームというからには、
遊んだ人に何か考えさせるものでなくてはなりません。
このゲームでは、それは何なのか?


もう、おわかりですよね。



・・・って、そんなの絶対わかるわけないだろっ!

という声が聞こえてきそうなので、また話がプチ脱線する前に答えを言っちゃいます。



つまり、こう言うことができます。

「このゲームに登場するキャラクター達は、自分たちの存在する世界が作り物であるとわかっている。」



これって、主人公のマリコ姉妹にとっても、敵キャラクター達にとっても、とんでもないことです。

その冒険を 「クリア」 したって、エンディングが待っているだけですし、
それを阻止したって、何度でも何度でも、「主人公」 は蘇ってくるんです。

また、「クリア」 することで登場人物の使命は終わります。
彼らにとって、それはつまり 「世界の終わり」 なのかもしれません。

そんな世界に住んでいることを、
必然的に知ってしまっているキャラクターの気持ちを想像してみると、
「知らぬが仏」 だったとしか思えません。



でも、もしかしてそれは・・・。

.... と、この先を書くとさらに長くなりそうなので、とりあえずここまでにしておきます(笑)



こんな風に、ゲームを遊びながらあれこれ考える人は普通はいないでしょうが、
とりあえず本作品がプレイヤーに伝えたいメッセージはそこにあります。



最初に述べた通り、こういうコンセプトを追求したことにより、ゲームとしての面白さはかなり犠牲になっていると思います。
というより、娯楽性をある程度排除したゲーム、と表現しても間違いではないのかも。
実際、サイト上での公開後、最初に来た感想は 「もっと普通のアクションゲームを遊びたかった」 でした。 ありゃ~。


数々のイジワルにムカついて投げ出してしまった方、すみません。。。
ここだけの話、実は作者もなかなかクリアできなかったのです。
普通のプレイヤーと同じように、自分で遊びながら攻略法を探していった感じですね。
本来そんなものはリリースしちゃいけないんですが... (笑)

まあそれはそれで、「人生そううまくはいかない」 ということを教えてくれるゲーム、という解釈でもいいと思います。
ほんとにそういう風に思ってくださった方もいらっしゃいますので。

あるいは、ずーーっと裏方にされてきた 「プログラム」 による、ささやかな反逆なのかもしれません。
妨害されているのはプレイヤーよりも、主人公のキャラクターということになるでしょうか。
(そして、プレイヤーと主人公はタッグを組んで、その反逆に対して反逆しているわけです。)




なお、既存の有名アクションゲームのパロディ作品で、
ものすごくイジワルなステージ構成で話題になったゲームというのが過去に複数あったんですけど、
本作は正統派パロディ(?)でもなく、「初見殺しゲー」 (でいいのかな?) とも違う内容にしました。

「またその手のゲームか!」 と思われると存在意義も薄くなってしまうと思ったので。。。
かと言って、普通のゲームだと、それこそ本当に 「何の変哲もない普通のゲーム」 だと思われてしまいます。
最も致命的なのは、”つかみどころ”のない作品になってしまうことであり、それはどうしても避けなければなりませんでした。

ひとつお断りしておきたいのは、本作は前述したような 「覚えゲー」 が好きな人をターゲットにしたものではありません。
発表後、覚えゲーというジャンルのゲームとして低く評価する声がいくつかあったので、念のため。。

そもそも、それらの作品のいくつかは開発中、それもかなり完成に近い時期に知ったんです。
(なので、コース中のトラップのアイデアが偶然カブってしまった部分もありました)
赤い帽子の人のゲームをモチーフに、イジワルなトラップを盛り込んだゲームって、穴場ネタだと思っていたのですが(笑)
でも、もうだいぶ完成していたので、それだけの理由で今さらゲームデザインを変えるわけにもいかなかったんです・・。

無論、始めからそういうジャンルは目指してません。 もしそうなら、もっとヒドいトラップが多数登場すると思います。
例えば、最初のトゲに化ける敵は踏まないように誘導するコインが配置されていますし、
人食いキノコだって踏みつけて利用したり巨大化してコインを取ったりする意味もあるわけで・・・。

作者的に、本作について 「初見殺しゲー」 を引き合いに出すのは、
プリンと茶碗蒸しで味比べするのと同じくらい妙な話です。。。(苦笑)

第一、なぜ今になってずっと前に流行ったゲームをただ真似ただけのゲームを作る必要があるのか??
想像でしか言えませんが ・・・ もし作者が 「まりこ」 のプレイヤーなら、
開始 2,3 秒で 「このゲーム、パロディみたいだけど、なんか違う...。」 と気付いんたんじゃないかと。

それと、もし普通のゲームにしてしまったら、中途半端なパロディになってしまいますし、
ゲームが得意でないプレーヤーだとプレイ時間も中途半端に長くなってしまい、
「遊んでみた結果」 (例えばゲームオーバー位置ツイート) にたどり着きにくくなる、というデメリットもあります。

また、完全に予測不能なトラップは、「プログラムを見て内容を推測する」 という攻略手法が使えないため、本来は避けるべきでした。
妙なトラップが最初のステージ (特に序盤) に集中しているのも、そういう理由があってのことです。
本作はランダムによる不確定要素が多くなっていますし、その点でも 「覚えゲー」 とは違います。


それよりも、「元ネタのゲームしか知らないような人が遊んだらどう思うか?」 のほうが気になります。
いずれにせよ、ゲームとしての面白さを追求してないのはもう明らかですね。

なので、初めて 「クソゲー!」 と言ってもらえた時は、結構嬉しかったです。(笑)


というか、もっと言えば、一番大事なコンセプトについては、ヒゲの人のゲームすら無関係です。
目指しているところが全く違うわけですから、普通に比べてもしょうがないんです。



あれこれ書いてきましたが、ここで冒頭の話に戻りまして、
作品のコンセプトなんて、なかなか理解されないものなのです。

『まりこシスターズ』 を遊んで、
「ちょっとひねくれたパロディっぽいアクションゲーム」
だと思う人もいる ... というよりたぶんそれが多数派です。





部屋に飾れるゲームを作ってみた。


ゲームの設計図である 「プログラム」 は、遊んでいるだけでは実体がどんなものなのかわかりません。
それが画面の中にそのまま存在することは、単純に意外性があると思っています。

でもだからと言って、普通に遊んでもらいたいアクションゲームを作るのに、
わざわざゲームとプログラムを一体化させる必要などありません。
それをしようとすることで、開発コストが何倍 (気持ち的には十数、いや数十倍?) にもなってしまうので・・・。
(ついでに言えば、ゲームをちょこっと修正するだけでも、かなり手間がかかったりします。)

さらに、hogehoge.js のような、開発をやりやすくする 「ライブラリ」 も一切使ってません。
制作を援助してくれるものは、ほんとに何もなかったのです!(作者の情熱以外は。)

そこまでやったわけですから、それが作品のコンセプトに関係していないと 「面白くない」 です。
普通はコンセプトが先にあって作品を作るものなので、話が逆になってる気もしますが (笑)


それだけでなく、「ゲームの中身ってこんな風になってるんだ!」 というのを知るきっかけにもなります。
これからプログラミング教育はますます盛んになっていくでしょうから、
このような作品が生まれることは、遅かれ早かれ必然だったのではないでしょうか。

ちなみに、作者は本作のようにプログラムの文面を視覚化した作品を、便宜上 「ピクぐらむ(Picgram)」 と呼んでいます。
picture と program を合わせただけなんですが、呼び名を決めるぐらいの価値はあるんじゃないでしょうか。
(いつか、「ピクぐらむ展」 とか 「ピクぐらむコンテスト」 とかやってみたいなぁ、なんて思ったり。。。)


今のところ、自分が作ったもの以外では、同様の手法を使ったゲームを知りません。(もし知ってたら教えてね!)
ただ、「まりこ」 発表の一年以上前に Maze++ という、ちょっと昔風の迷路ゲームを公開していました。

このゲームもまりこ同様にプログラムの文面を使っていて、「設計図からの脱出」 をテーマにした作品なのですが、
なにしろ感想等はほとんど頂いてないので、コンセプトをわかってもらうどころではなかったのです・・・。
実は、これが全くウケなかったから、似たコンセプトを持たせて大作 「まりこ」 を作った、というのもなくはないんです。

それでも、いわゆる統合開発環境 ( Unity とか) では作れないものなので、それなりに意味はあったかもしれません。
ただ、少なくとも個人でこういう作品を作るのは、本作が最後になるかなぁ・・・。

見た目以上に、再生環境にとってもクリエイターにとっても負担が大きいので、
少なくともここまで ”濃い” 作品をどんどん作りたい、という気持ちにはならないです。


同時に、この手を作品を一流のクリエイターが作ったらどうなるか見てみたい、という気持ちがあります。
正直、作者は個人でゲームを開発するのには向いていないのではないかと・・・。

実は Maze++ の時点でも開発には結構苦労していて、
そんなんで規模が桁違いに大きい 「まりこ」 を作ることができるのか不安でした。
本当はもっと本格的なものを作りたかったけど妥協した部分も数多くあったりします。


また、本作に関してはWebサイト以外のリアルな場所でも発表しましたが、
そこでは敢えて作品の趣旨を説明せず、まずは遊んでもらうようにしました。

コンセプト解説を聞いてからじゃないと遊べないのであれば、
もやはそれはゲームではなくなってしまうと思いまして。

遊んでいるうちに 「普通のゲームと何かが違う!」 ということになんとなく気づいていただければ、という感じでした。
(案の定、「プログラム」 の存在に気づいてくれた方は明らかに少数派でしたが。)

作者の意図が伝わっていたかはともかく、展示では大人にも子供にもおおむね好評で、
試しに (そして恐る恐る(笑))、 感想を書いてもらうためにメモ帳を置いてみたら、
「おもしろいっ!!」 「楽しかった!」 「売ってほしい。」(!) といったコメントが次々書き込まれていました。
(写真を掲載したいんですけど小さなメモ帳で読みにくいのでやめときます。)

「こんなにウケるなら、ネット上でも多くの人に遊んでもらえるのでは?」 と思ったわけです。

何度も経験してきたことですが、リアルでの反応とネット上での反応はかなり違っていて、衝撃を受けたのも事実です。



-  某イベントでの展示風景 (付箋は来場者のゲームオーバー位置記録)  -



もちろん、作品の受け取り方は自由です。

少なくともゲームを遊ぶのに、このゲームが何を伝えようとしているか、
なんて考えないほうが素直に楽しめるでしょうし、
「意味を理解できなくて、価値がわからない」 というのもしょうがないと思います。

ただ、前述の通り、「作品を理解してないのに、その価値がわかっているつもり」 は、ちょっと困ります。
それこそが 『良いものが称賛されるのではなく、称賛されるのが良いもの』 になってしまう思考なのです。
「おもしろい」 と思うのも 「ツマラナイ」 と思うのも、軸となるコンセプトを理解していなければ五十歩百歩です。


「まりこ」 は遊ばれる時間は平均数分 (推定) でも、構想には相当時間をかけていますし、開発にはさらに1年半以上 (丸2年近く?) かかってます。
(実際にはゲームを開発する 「システム」 が完成していた状態から始めたので、実質的にはそれよりもっと時間がかかっていたことになります)


どういうわけか、一部のゲーマー達には 「ゲームは魔法みたいに楽しみながらポンポン作れる」 みたいなイメージを持たれてる気が...。
ゲームを一度作ってみればわかると思いますが、そんなことは不可能です。 少なくともプログラミングの才能がない作者には。。。
作るのがゲームだからと言って、遊び感覚で作れるわけではないです。 本気でやってます。

しかも、作ってみると思わぬ問題が発生したり、突然新しいアイデアを閃いて急遽要素を追加したことで、
ド○クエのナンバリングタイトルみたいに完成予定日がどんどん延びてしまいました。
このままでは永遠に完成しないのではないか、と不安になった時期もあったり・・・。

正直言いまして、ゲーム (ソフトウェア) の開発は時間がかかりすぎる上、寿命も縮まります。
まさに、命を削って作品を生みだしているのです。

そうやって苦労して生み出した作品ですから、やはり遊んでくださる方には、少しは意図を理解してほしいのです。
趣味とはいえ15年ほど前からゲームを作ってきたクリエイターの端くれとしては、
ゲームがただの 「時間泥棒」 (場合によってはお金泥棒) になってしまうのは、とっても寂しいわけです。

なので、ほとんどの人は読んでくれないとわかっていても、こんなに長い解説を必死に書きました。



こういう文章も含め、できることならもうちょっと短い制作期間で仕上げたいものですね。
グラフィックも本格的なものにしたかったし、音楽も自作したい。

あと、ゲームデザインも 「パクり」 ではなく完全オリジナルにしたかった。
( 「それはわざとだろ!」 とかつっこまないで ... あ、いや、もうつっこんでいいです ^^;)

う~ん、やはりもうちょっと開発者としての素質があれば... orz

そういえば、2,3 年かけて絵も音楽も全部自作の、
超大作PCゲームを発表して人気になってたクリエーターさんがいて、昔は憧れたりしてましたね~。
今思えば、憧れるだけ無謀だったわけですが・・・。



それにしても、数時間で作られた作品が ”バズる” こともあれば、数年掛けて作ったものが誰にも知られないことがある現実。
どこかで聞いた言葉ですが、人々に知られさえすれば評価される作品が、誰にも知られずに埋もれていくのは、とても残念なことです。

バズるのは 「一発ギャグ」 的なネタ作品が多いけど、「努力を買う」 のも忘れないでほしいですねー。
本作品については、潜在的価値がどれくらいなのか、その前に評価の対象になっているのかどうかもわかりませんけど・・・。




なお、「まりこ」 はゲームですが、ある種のアート作品でもあります。
( 「プロセスアート」 という言葉がありますが、強いて言えばそれなのかなぁ。。 初めて聞いた人は調べてみてね!)
このようなゲームを作ることは、「ゲームはアートではない」 という暗黙の認識に対しての、ささやかな抵抗です。
そして、ゲームとアート (=コンセプチュアルゲーム) の境界線をどこに引いてどう妥協するかで、とことん悩みました。

で、アート業界というのは逆に、「興味深い」 ものはたくさんあっても、
”楽しい” という意味の 「エキサイティング」 な要素を持ったものは、あんまり多くありません。
正確に言うと、そういうものがあったとしても、アートとしてはあんまり評価されません。

なので、「まりこ」 のようなコンセプチュアルなゲームがアート業界で認められれば、
大衆にとっては難解で退屈な現代アートも、もっと親しみをもってもらえると思うのですが、どうですかね?? (アート業界の皆さん!)



コンセプチュアルゲームは、大人も子供も、
ゲームが好きな人もそうでない人にも興味を持ってもらえる、
新しいエンターテイメントになる可能性を秘めている気がするのですが・・・。

これってただの個人的願望でしょうか。



ちなみに作者は美術館によく行きますが、普通の人には理解不能な作品に限って、タイトルが 「無題」 だったりします。
アートというのは、作者が作品を説明する義務はないみたいです。 その辺も、ゲームの世界とは正反対かもしれません。

だって、ゲームなんて面白くなかったら 「クソゲー!  開発者が悪い!  金返せっ!」 で終わりじゃないですか (笑)
「これはわかる人にはわかるんです!」 というゲームがヒットした、なんて聞いたことがありません。

中にはそんな感じのゲームをよく作るメーカーさん (社名は伏せます) もあって、
個人的にそれ系のゲームは嫌いでもなかったんですけど・・・。
説明書が無いゲーム、っていうのも無くはないんですが、これもあんまり流行らないみたい??




そして結論へ ・・・


”メーカー” で思い出しましたが、ゲームを遊ぶだけでなく作り手になれる、っていうのに魅力を感じる人は多いと思います。
そんなわけで、ユーザーがコースを自由にデザインできる まりこメーカー も作ってみました!!!
本編はたぶん ”クソゲー” ですが、こちらは工夫次第で ”エキサイティング” なゲームにすることもできる・・・かもしれません。

こっちのほうがみんなで楽しめるようになってると思いますので、少しでもご興味がありましたら、ぜひ遊んでみてください。
もう遊んじゃってる人は、もっと遊んでみんなに広めて、ぜひ社会に一大ムーブメントを起こしてください。

しかし、とことんあの有名シリーズに似ちゃってますね...
(あ、たまたまですよ、たまたま!)



でも、実はこの 「まりこメーカー」、本編の開発終盤までは作る予定なかったんですよね。
双方の互換性を持たせるためにプログラムのサイズが大きくなってたりするのは、ココだけの話。
”アートなゲーム” と ”とにかくゲームなゲーム” とが共存してるわけですね。
こんな特殊な設計のゲームなんて、後にも先にも無いかもしれないです。



ここまで来てまた話が逸れますが、ゲームを ”みんなで楽しむ” っていうのはすごく大事だと思うんですよ。
それは、同じ部屋に集まってワイワイしながら遊ぶ、っていう意味で、です。
レトロゲーム世代の方には、畳の部屋で友達と一緒にゲームを遊んだあの日常の光景を思い出してほしい。
あーだこーだ書いてきましたが、一番言いたかったことはこれだったりして。
ゲームがコミュニケーションツールとしてのポジションをもっと確立すれば、オトナ達に嫌われることも少なくなるかもしれません。
その点、スマフォのネットワークゲームはリアルな会話があんまり生まれないので、そこは大きな課題です。



あ、ちなみにこのページのタイトルの 「こいくち」 っていうのは ”味 = 内容が濃い” という意味です。
最初は 「濃い口ってほどの内容でもないですが」 という程度にするつもりだったのが、本当に濃い口になってしまいました!

いや、味が薄くて内容量が多いだけかもしれません。
こんなの書いてる時間あったら少しでもゲームバランス調整しろっ、って感じですよね (笑)



他にも、開発時のエピソードとか、コース設計のこだわりとか、
プログラム中に散りばめられた秘密の言葉とか、プログラムの総行数のこととか、
1つのブロックの幅が半角文字8文字分になっていることの意味とか、
まりこ達がドット絵であることを差し引いても抽象的なルックスである理由とか、
昔のゲームは容量の制限がキツくていろいろ工夫してた云々とか、
完成を先延ばしにしてまであんまり意味なさそうな裏技をいろいろ盛り込んだ理由とか、
実は把握してるけどコード量を増やさないためにわざと放置してるバグがあるとか、
諸事情で登場させるのを泣く泣く断念した敵キャラクターがいるとか、
「出オチ」 にならないように最初のコースでは敵やトラップの種類を抑えたとか、
コース上に配置されている全てのものになるべく存在意義を持たせようとしたとか、
赤い帽子のあの人のゲームだけをパロっているわけではないとか、
敢えて模倣することでパロディが許容される範囲の線引きをしてみたかったとか、
エンディングに開発者の名前を含めるのをすっかり忘れてたとか、
ここにも書いてない 「隠されたメッセージ」 がいくつかあるとか、
書こうと思えばいくらでも書けますが、もう充分長すぎるのでやめときます。
それはまたお話する機会がありましたら・・・ (たぶんないけど(笑))



あ、でもこれだけは書いとかないと・・・。


「まりこ」 というキャラクターはある方をモデルに、というよりイメージしてデザインしたのですが、
極度の拝金主義とスイーツ好きについては、本作の社会風刺の意図のための設定であり、その方とは関係ありません。
前者の設定については、どういうメッセージを込めているのかは、
なんとなくおわかりいただけると思うので、そこまでは書きません。
後者については、いつかお菓子業界とコラボした新作を作れないかなぁ、なんて思ったり思わなかったり。。。


あと、続編については構想のみあります。
もちろん、普通のアクションゲームではなく、あんなことやらこんなことやら、色々考えてます。
もし 「一緒に作ってやってもいいよ?」 なんていう奇特な方がいらっしゃいましたら管理人までご連絡くだされ。




・・・ というわけで、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ひょっとしたらここまで一気にスクロールして、
締めの言葉だけ読んでくださってるのかもしれませんが、それだけでも嬉しいです。

何か言いたいことのある方は、いつでもメール等ください。
あ、でも 「どうしても”まりこ”は駄作にしか見えない」 とかいうのなら出さなくていいですよ。(笑)



2016. 5. 10  (年末 加筆修正)

もっと濃い話を読みたい方は、このページのソースを見てね♪
(ソースの表示方法がわからない人は、ググってみよう)

このページを見てくれた人だけに、ちょっとした オ・マ・ケ
注: なるべくスペックの高いPCで遊ぶべし!